2009.06.13

伝統的作業療法では、治療手段としての作業を差別しないなどと…

私は云ってきました。それは、内職作業とか簡易作業も、塗り絵とかも、バカにした作業ではないし、患者さん個人にとっては、貴重な作業である場合があるから。

しかし、だからといって、作業療法が言うように?、生活全ての作業が、治療手段の作業に用いられるとは、伝統的作業療法では言えない。

だが、それはその作業をバカにしたり、侮ったりして、用いないのではない。治療に用いることは出来ないほど神聖な作業だから、用いられないのである。

例えば、恋愛。恋愛は、対人関係なので、基本集団作業療法になってしまう。まぁ、色々な問題はあるが、それならば、出来ることもあるかもしれない。しかし、個人作業療法では、してはいけないでしょ。治療をしている人物が、患者と恋愛関係を持つことは、それはそれで神聖なことなので、したって良いのですが、伝統的作業療法において、恋愛を治療手段にしてはいけません。

恋愛を計画し、評価するってことは、実生活でするべき事で、治療場面の中だけで、してはいけないと思うのですわ。というか、そう言うのは、恋愛と云ってはならない。患者と恋愛関係になるとしたら、それなりの覚悟がいる。それは、実生活で、真剣にやるべき事だと思う。

ん~、私は恋愛を純化しすぎなのであろうか?

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2009.06.09

精神科作業療法の評価は、評価の積み重ね、聯繫が大切。走馬看花な評価で終わらないように!

などと云っているが、第一印象も重要。外見で、一瞬の見た目の印象で、精神的機能を即断する評価も重要。初対面の時の見た目印象と、その後の環境要素がほぼ同じ条件の中で、その人の見た目印象の再評価で、その人の精神的機能の恢復を図ることも重要だからだ。

ただ、評価はそれだけでは十分ではない。色々調べていかないと。で、初めは、表面的なことしか分からなくて良い。いきなり、自己認知、自己認識機能を評価すべきではない。

ただ、ケースの言動や行動に対して、適切な評価方法で、無理なく、返して調べていくことで、早期に自己認識機能を評価することは可能だし、重要である。

ある一つの評価項目についての評価中でも、考えながら、疑問を持ちながら、拡大しながら、評価していけば、その評価項目の評価は深まってくる。そういうことを各評価項目でやっていって、それらを要約していくことが、評価のまとめである。評価の考察とは別である。

纏めたら、その後は、評価を考察していかなければならない。考察というのは、一つの場面だけで、いろいろと考えを深めたり、押し広げるだけではなくて、色々な場面で得た素材・資料を材料にして、各各の共通性、それぞれの関連性などを見出していって、考慮して、考えを統合していく事なのである。そうして、評価を深めていくことも重要なのである。こういうことが、評価の考察と云われることである。

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2009.06.08

伝統的作業療法の目的の一つ

例えば、生活上、自己認知、現実検討が、歪んでいると言う問題を抱えている症例の場合に、精神科作業療法において、これを問題にしたとすると、伝統的作業療法では、先ずは、作業上の自己認知や現実検討の評価をして、先ずは、短期的な目標として、作業上での、その機能の改善を図ろうとするのである。

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2009.06.07

精神科作業療法実習 症例レポート 評価の纏め方と全体像のとらえ方

先ず、初めに云ってしまうが、全体像なんて捉えきれないよ。
こんなことを言うバイザーは、私くらいかもしれないが、だって、自分が出来ないんだから仕方ないわさ。でも、まぁ、それに近づけるために、先ずは、評価をちゃんと纏めてみましょうって事でいいわけよ。

全体像?とかまとめとかは、結局、日々のケースノートの蓄積なんだ。私は、全体像の意味がよく分からないが、とりあえず、ケース本人の評価機能項目の全体構造が、畢竟、全体像になってしまうのだと思う。まぁ、これは、全体像というよりは、私は、骨格、骨組みと云っている。この骨格構造が、どうなっているかで、ケースの特徴が、示されるという面があるのだ。

もちろん、ケースの特徴は、この骨組み、その機能項目に、その具体的内容を肉付けしていくことによって、より明確になる。なので、そのように、肉付けしていけばいいのである。色々な場面やいろんな時に、この機能項目を評価してきたことを、肉付けして、盛り込んでいけばいいのである。

以上の筋骨系を、要約して云えば、それが、一つの評価のまとめである。そして、これを元にして、より複雑な、神経系、血管系、リンパ系などについて語ることが、考察になっていくのである。

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2009.06.06

精神科作業療法のケースレポートを書くときの基本事項

それは、言葉、キーワードを自分で定義するということである。

例えば、現実検討能力の低下という評価をして、そのような言葉をレポートで使う場合のことである。現実検討能力といったって、ある程度の概念的な枠組みはあるが、具体的に何なのと言うときに、レポートには、その説明がされてなければいけないということである。

抽象的環境である『現実』と言う表現は、かなり広範な意味を含んでいる。レポートに、どんな現実とケースが関係したのかが、レポートに表現されていないと、いけない。また同様に、検討能力という精神的機能が、具体的にどんな機能なのか、どのような検討機能をケースが用いている所を観察したり、評価したのかを、レポートに具体的に表現せいと言うことである。

それには、毎日のケース記録に、観察した場面での、ケースの行動や言動と、自分の具体的な行動や言動および、内観した内容を、キチンと区別して、一連の時間的経緯の中で、記録を止めておく事が大切である。そして、爾後に、その場面をまた、反省することが重要なのである。

ケース記録が、ケースレポート基本であり、重要な資料なのである。

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2009.06.04

伝統的作業療法の奥ゆかしさ

なんて、きれい事を言ってますが、これは、伝統的作業療法の専門性から来る、弱さでもありますかね。

昨日に続いて、言葉選びなのですが、私は、訓練治療など現代風にいえば、上から目線の言葉を伝統的作業療法でも用いてはいますが、ちょっと躊躇している言葉が、『褒める』という目線のことです。

まぁ、どうでもよいことかもしれませんが、私は勝手ながら、『褒める』に、態とらしさを感じてしまうというのか、飴と鞭というような行動療法的な面を感じてしまうというのか…。実際私が行っていることも、『褒める』なのかもしれませんが、あまり、伝統的作業療法としては、堂々と選んで言えないというのが本音です。

伝統的作業療法では、余りそう言う表現はしていません。作業遂行結果において、以前との違い、特に進展を、具体的に、明確に、言語化して伝え返すこと。一寸長くなってしまいましたが、そのような表現のほうが、未だしっくりときます。

ただ、素敵とか、凄いとか、立派とか、偉いなどと言う言葉を重ねて褒めるのではなくて、過去の状態を言語によっても、刺激し、想起させ、それと今の比較から、進展、進歩を具体的に明確化して、伝えるということです。結果、それが褒めているということになるのかもしれませんが、要は、煽てられて、気分をよくするのではなくて、本人自身の体験の反省や、価値判断で、自信を持っていただけたらという願いがあるわけです。

微妙な違いかもしれませんが、でも、しっかりした、個人の頑固な価値観や自信を持てたらと思うのです。

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2009.06.03

特に、今年くらいから、伝統的作業療法の基本は国語だと思うのです。

タイトルの考えも古いと思います。

何故かというと、精神科作業療法に限らないのかもしれませんが、精神科作業療法というのは、本来?精神を対象にしていると私は考えています。脳機能に置き換えたりするのが、昨今の流行かもしれませんが、私は、伝統的作業療法なので、目に見えない精神をそのまま精神として対象にしているのです。古いですよね。

そのままの精神というのは、抽象的ということです。ただし、抽象的なことを対象にする以上、それを誰かに伝えるには、取り敢えず、如何せん、言語表現をしなくてはならないのです。

抽象的なことを言葉に変換する。言葉に表す。既に、日本語、国語の中にも抽象的な言葉はたくさんあります。沢山答えがあるものから、答えを見出すことは、反って難しいものですが、それが、国語の難しさです。国語の勉強の究極の意味は、言葉選びですから。

精神科作業療法にかかわる色々な抽象的環境要素や抽象的機能があるのです。それを適切な言葉を選んで表現する。なるべく一般的な日本語で表現し伝える。それが、伝統的作業療法の専門性の一つであると私は考えています。

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2009.06.02

今年の反省;今年は、新鮮な記事がなく、二月くらいから、ずっと、だらだらとした記事ばかりでした。

これからも忙しいので、また、休むかもしれませんが、もう少し、生の声を記事にしていきたいとは、思っています。

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2009.06.01

評価の目的

<B>精神科作業療法評価実習</B>

なぜ、いきなり、評価実習の話になるかというと、この実習が、伝統的作業療法を学ぶ可能性がもっとも大きいからである。臨床現場では、日本の精神科作業療法の文化が、良くも悪くも残っているからである。しかも、作業療法士になるためには、全員が通るコースでもある。
 この実習では、個人的にあるいは、その職場の独自性のために、どんな専門的な実践をしている実習指導者でも、実習生の学生には、そんな専門的なことより、先ずは、作業療法の基本を学んでもらおうとするからである。そのため、多くは、この実習の場合、学生の自主的な学習に任されるのである。
 
<B>精神科作業療法評価実習で何をするの?</B>

これは、学生にとっては、重要な問題であろう。しかし、伝統的作業療法にとっては、単純なことである。
 つまり、評価の対象機能とその具体的方法を明らかに自覚して、実践するということである。それができれば評価実習はほぼ合格である。
(1)中心となる評価の対象機能
 それは、伝統的作業療法が注目する精神機能である。つまり、作業に伴う精神機能である。伝統的作業療法にとって、精神機能とは、ケースが作業と関係をすることによって生じる、あるいは作業に対して使う精神機能のことである。(決して精神療法などが重視する機能を作業活動で利用するというような見方ではありません。)
 ただし、私の実習指導では、作業に関する精神機能の評価項目の名称は、学生自身に考えさせている。
 それは、実習で考えればいいことなので、ここでは述べない。
 ただ、基本的な見方だけは述べておこう。
 
 伝統的作業療法では、学校で習うのと違って、評価機能を出発点にしていないというところが、特徴であろう。その是非はここでは問わない。
 伝統的作業療法は、「とにかく作業をやってみましょう」が、出発点である。
 つまり、出発点となる重要な点は、手段となる作業そのものである。
 伝統的作業療法にとって、重要なのは、精神科作業療法にとっての原点である作業手段なのである、ここで言うならば、評価手段となる作業が原点、基本である。 
(2)評価手段
 伝統的作業療法では、評価手段を大きく分ければ、以下の2つである。
1)作業
2)作業活動:OTRやOTSの作業活動 
 
 評価対象者にとっては、1)も2)もさほど区別はないが、評価者を中心に言うと、ここでは、この点は、しっかりと区別しておきたい。
 1)は、検査のようには明文化されてはいないが、抽象的環境要素である文化的規範として存在し、いわば、一つの検査方法と同類のものである。ただ、伝統的作業療法の評価は、検査と言うほどの具体的マニュアルには、とらわれない、自由にルールを応用して用いた、臨機応変な、些細な評価なのである。(この説明の理解のためには、伝統的作業療法の作業の意味を知っていないと難しいと思われます。このサイトに作業の意味という頁がありますので参照してください。)
 
 そして、2)に関してであるが、通常、検査評価者は、検査方法を説明することと検査項目のチェックをすることに終始する。
 しかし、伝統的作業療法は、検査方法をいつもいちいち説明するわけではない。また、説明をするだけでなく、説明はなく、いきなり、作業療法士である評価者自身が、検査方法の一部、あるいは一つにもなるのである。
 伝統的作業療法は、常に静観した観察者であるというわけではないのである。説明のない、一緒に作業をしながらの動的な評価観察者なのである。
 こうした意味から、1)2)の評価手段は、伝統的作業療法独自の特徴であり、専門的な特徴といえるであろう。
 
 ところで、先ず、具体的にどんな作業を選択して評価するかと言うことは、学生にとっては、不安になる点であるかもしれない。何しろ、作業の種目は、限りがないのだから・・・、すると、何故だか、学生は、箱づくりをやらせることが多いのである。学生は、箱づくりにおいて、検査者に終始している。それが、伝統的作業療法を重視しない、学校教育の指導で、箱づくりを学校の授業でよく紹介しているようなのである。
 この問題は重要なので、次のコラムで検討したい。

<B>伝統的作業療法での評価の目的 </B>

この評価の目的という点で、伝統的作業療法と学校作業療法教育との間に、かなりの隔たりがあると思われる。
 (ここの場で、前提となっている点は、学校教育では、伝統的作業療法が教育されていないという点であり、場合によっては、その存在すら認めていないなどということである。しかし、もちろん、私は、伝統的作業療法でいう作業療法の基本事項をきちんと教育している学校、先生もきっといることを信じている。)
(1)学校教育における評価の目的
1)ケースの客観的な評価
2)ケースの正しい評価
3)ケースの経歴・病歴の評価
4)ケースの全体像をとらえる、多角的な評価
5)ケースのニーズを知る、ニーズを判断する評価 などなど
(2)伝統的作業療法の評価の目的
 そもそも、伝統的作業療法には、ケースの真実の姿を調べるという、発想はなかったであろう。とにかく作業の場面を重視したのである。
 評価の目的があるとすれば、よりよい評価をすると言うことであろう。よりよい評価とは、ケースが、よりよい評価結果を出せるような評価をすると言うことである。
 つまり、伝統的作業療法の重点は、評価ではなく、スムーズに作業療法の訓練が、進んでいくことにあったのである。
たとえ、正しく、必要な評価であっても、その作業を行うとき、ケースが、抵抗したり、望まない場合には、無理にはできないのである。

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2009.05.31

日本の精神科作業療法の歴史

日本の精神科作業療法は、二十世紀のはじめ、呉秀三にはじまる、とされる。その後、加藤普佐治郎、菅修など、時代背景に影響を受けながらも、細々ながら、続けられてきた。
 そして、日本独自の精神病院医療の生活療法の興隆の中で作業療法もより盛んに行われる時代もあった。こうした話は、大学などの養成校でもよくされているので、ここではしないが、次の点は、あまり強調されていないので、再度確認したい。

<B>作業療法士の出現</B>

 このように日本では、国家資格の作業療法士が、出現する前から、精神科作業療法の実践者は存在し、細々ながら行われていたのである。
 ところが、作業療法の資格化の動きは、こうした以前から行われていた日本の精神科作業療法の伝統や、当時の作業療法の実践者を全く無視した行政主導の下で、アメリカの直輸入の模倣という形で行われた。精神科作業療法も、アメリカのリハビリテーション作業療法として、アメリカでも歴史が浅い身体障害の作業療法との抱きかかえという形でで移入されたのである。
 
 また日本における精神科作業療法の診療報酬点数化開始の時期についても、精神科作業療法の当時の動向を無視した、不適切なものであり、そのため、精神科の医師を中心とするある団体から、精神科作業療法の診療報酬点数化に対する反対運動が、起こったりした。
 とにかく、このように、日本の作業療法の資格制度は、精神科作業療法にとっては、全く未熟な制度である。大変不自然で、当事者が、成熟して必要と感じ、自分たちで築き、獲得した資格ではないのである。

 勿論、当時の精神科作業療法を担ってきた人々は、資格化自体には、歓迎すべきことだと言う認識もあったと思われるが、それまでの日本独自の精神科作業療法の経験が、資格化に伴う養成校の教育現場で、どれだけ反映されたのかについては、甚だ疑問である。

<B>作業療法士資格化への経過措置 </B>

このように不備な点が多い作業療法士の資格化であるが、一応は経過措置があった。つまり、精神科作業療法の経験者には、制度化された専門の学校教育を受けなくとも、国家試験を受けられたのである。
 しかし、このような当事者を無視した不備な制度化に反対し、あえて資格を持とうとしない熱心でまじめな精神科作業療法実践者も多数いた。
そして、この人達の中には、作業療法士協会以前から、独自に別の精神科作業療法協会(POTA、通称ぽた)を設立していた。(註:POTAのサイトをリンク頁に、紹介していますのでご参照下さい。私は、実はPOTAのことには詳しくないのです。会員でもありません。詳細について、一部私の見解が不十分である可能性がおおいにありますので、疑問があるかたは、お確かめ下さい。)
 
また、当然ながら、国家試験を受ける者もいた。ただ現状は、その中の多くは、病院の要請により圧されて、薦められて受験したのであろう。、経営上、円滑に有利に働くことも事実である。しかし、精神科を専門に業務をしてきた実践者にとっては、身体障害分野もふくんだ試験に合格するのは難しかった。
 それでも、個人的なしっかりとした考えで、真剣に合格を目指して受験する精神科作業療法実践者もいたのである。 この経過措置で合格したわずかな作業療法士は、精神科作業療法に対して熱心であり、かつまた、精神科作業療法を発展をさせようとする優秀な切れ者たちであった。

<B>伝統的な作業療法に関する教育の不備</B>

こうして、資格化へ向けて先に制度化された作業療法の専門学校教育においても、日本で実践された精神科作業療法、伝統的作業療法も、勿論全く無視されていたのである。
 従って、そうした教育は、恐らく、以後どこの作業療法教育の学校でもきちんと体系的になされたことはなく、ただ、そうした伝統的作業療法を知るわずかな精神科作業療法実践者による精神科作業療法実習指導においてのみ、わずかに伝えられ、教育されていたにすぎないのである。
 従って、現在に至っても、伝統的作業療法、あるいは、精神科作業療法の基礎をきちんと学べなかった不幸な精神科分野の作業療法士の中には、専門性に危機感を抱いてしまったり、果てには、血迷って他の分野に自分の存在をおいてしまったりということが起こっているようである。
 また、最近の若い作業療法士には、資格を手にしておいて、自分のやりたい療法を精神科作業療法という場を利用して、行うという賢い方々も多い。

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